身代わり未満

身代わり未満 手探りの愛撫
第1回

身代わり未満 手探りの愛撫

2015/05/29公開
◇◇◇

 幹線道路からひとつ外れた車通りの少ない道に面したところにその営業所はあった。5階建ての中層ビルだ。
 掘削機械を扱うこの会社に経理事務として勤めているのは、今年30歳になる永浦香織(ながうらかおり)である。
 ストライプのシャツに紺色の事務服を着た香織は新入社員の後輩に的確な指示を出し、そのあとは淡々とキーボードを叩きながら仕事に励んでいた。
 肩につかない程度の長さで綺麗に切りそろえられた黒髪と、仕事のときにだけつける銀縁の眼鏡は働きぶりとあいまって彼女をまじめな人間だと強調する。
 香織が手もとの資料を確認していると、無骨な大きな手が視界に入ってきた。
「これ、頼む。俺はいまから工場へ行ってくる」
 香織のデスクに居酒屋の領収証を置いて足早に立ち去ろうとしているのは設計部の部長、東條正俊(とうじょうまさとし)だ。
 スーツのジャケットの代わりにグレーの作業着を羽織っていて、片手にはヘルメットを抱えている。
「わかりました。行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
 部長を見上げながら、けれど目は合わせずに言った。今朝がた香織が締めてあげたネクタイに視線を注ぐ。
(よかった、まだヨレヨレにはなってない。まさくんったら、ネクタイひとつまともに結べないんだから……。戻ってきたらこっそり結び直してあげよう)
 工場から帰ってくる頃にはネクタイは曲がってしまうだろう。工場のなかは初夏といっても暑いから、彼はきっとネクタイを緩める。
「……ああ」
 香織のほうを見もせずにぶっきらぼうにそう答えて正俊は部屋を出ていった。香織はそんな彼の背中を横目で見送る。
 行ってしまった。ほんの少しのあいだとわかっていても、彼がフロアにいないのは寂しい。
(だめだめ、集中しなくちゃ。早く終わらせて、早く帰って……晩ごはんを作らなきゃ)
 香織はふたたび業務に意識を集中させ、キーボードを叩きはじめた。香織と正俊は付き合っている。同棲もしている。
 彼とは香織がこの世に生まれ落ちたときからの知り合いだ。従兄妹なのだ。彼のほうが香織よりも13年長く生きている。香織の母親の、兄の長男が正俊である。
 ふたりが血縁なのは社内でも周知のことだが、同棲しているのは秘密だ。

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身代わり未満

身代わり未満手探りの愛撫

著  者
熊野まゆ
イラスト
イナリユウコ
レーベル
eロマンス文庫
価  格
454 円(税抜)
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