隠された蜜戯

教え子との再会が千草を変えていく
第1回

教え子との再会が千草を変えていく

2015/06/26公開
 授業終了の時刻が近づくにつれ、教室がザワザワと落ち着かない雰囲気に包まれる。本郷千草(ほんごうちぐさ)が板書の手を止めて振り向くと、生徒たちはもう教科書を閉じはじめていた。彼女は口早に説明をつけ加え、定型句を告げる。
「はい、じゃあ今日はここまで。来週はテキスト36ページまでやるので、予習しておいてね」
 ポツポツと返事があって、何人かの生徒が立ち上がった。千草は黒板消しを手に取り、サッサッと綺麗にしていく。大手の予備校だと黒板を消すためのバイトがいるらしいが、学習塾に毛が生えたような弱小予備校では、こういう雑務も講師の仕事のうちだ。
 その合間に質問があれば受け、なければチョークホルダーと教材を持って教室を出る。いまの授業は高校一年生向け。まだ大学受験は先のことだと思っているのか、生徒たちもそれほど熱心ではない。
 けれど三年生になってから慌てているようでは遅いのだ。余裕のあるいまだからこそ、基礎をしっかりと固めてほしい。せっかく映像ではなく対面授業なのだから、もう少し積極的に質問してくれるといいのだけど……。
「あ、本郷先生。お客さんがいらしてましたよ」
 廊下を歩いていた千草に声を掛けてきたのは、進学アドバイザーの後藤美咲(ごとうみさき)だ。大学を卒業したばかりというだけあって、若々しくかわいらしい。生徒たちと歳が近いこともあり、とても人気がある職員だ。
「お客さん? 誰かしら」
「教育書院の佐藤さんです。新しい教材のことでとか、おっしゃってました」
 ドキッとした。日本でいちばん多い名字だし、いま話題に出た佐藤さんにはもう何度か会っている。それなのにまだ『佐藤』という名前を意識してしまうことが嫌だった。
「ありがとう。次のコマは授業がないから、セミナールームで打ち合わせするわ」
「そうおっしゃると思って、お通ししてあります」
 にこっと笑って美咲は去っていく。まだ入って間もないのに、気が利いて有能な女性だ。それでいて嫌味がないのもいい。
 うちにお嫁に来てくれないかしら……。
 そんな馬鹿なことを考えてしまうのも、男っ気のない生活をしているからだ。彼氏がいたのは、女子大生のころ。もう十年近く昔の話だ。
 同年代の友人たちが必死に婚活しているのを横目で見ながら、千草は仕事に邁進(まいしん)してきた。20代をいたずらに浪費して、彼女はもうすぐ32歳になる。
 大学生にして初めての恋と、初めてできた恋人──。
 遅すぎた初恋は憧れと区別がつかぬまま、千草を男性不信にした。ひとり相撲の恋愛が、男性に対する理想や願望を粉々に打ち砕いてしまったのだ。
 安月給だけれど仕事は好きだし、美術館巡りの趣味もあれば、休日を一緒にすごす友だちもいる。夢も希望もないと揶揄(やゆ)されるかもしれないが、このままゆっくりと歳を取っていければいい。
 強がりじゃなく本心からそう思いつつ、千草はセミナールームの前まで来ていた。ドアの小窓からそっと中を覗くと、スーツ姿の佐藤貴史(さとうたかし)が姿勢を正して腰掛けている。
 6つ年下の貴史は千草の元教え子。教材出版社の社員として現れたときは、成長した姿に驚いたものだ。この予備校に通っていたときは毎日学ランだったけれど、いまはキチンとスーツを着こなし、立派な社会人になっている。
 貴史があんなに大人になっているのだから、千草が歳を取るのも当たり前。年月の非情を思うと寂しくなるが、こればかりは愚痴ってもしかたがない。
「お待たせしました。先日お願いした教材の件ですよね?」
 軽くノックをしてから、扉を開けて声を掛ける。貴史はガタッと立ち上がって、深々と礼をした。
「は、はい。あの、サンプルができ上がってきましたので、ご確認いただこうと思いまして」
 そんなにかしこまらなくていいのにとは思うが、教師と生徒だったときのように心安くするのも貴史に失礼だろう。もう彼は学生ではないのだから。
 千草は貴史の正面に座り、机の上に置かれている真新しい問題集をパラパラとめくった。以前のものより解説ページが多くなって、無理なく学習できるよう工夫されている。
「うん、いいですね。頻出構文が厳選されているから、繰り返し取り組めばかなり力がつくと思います」
「ありがとうございますっ」
 貴史は安堵した顔を見せたが、千草はこっそりため息をついた。たしかに問題集自体はよくできている。
 ただコレと決めてじっくりやり遂げてくれればいいけれど、生徒たちはどうしても目移りしてしまうのだ。不安もあるのだろうが、いろいろ手を出した末、結局どれもが中途半端になってしまうことも多い。
「……なにか、問題でも?」
「あぁいえ、反復練習は大切だけれど、生徒たちにそれをわかってもらうのは難しいなって。ごめんなさい、教材とは関係ない話ですね」
「いえ、そんなことは。こちらとしても現場の意見や要望を、教材に反映していきたいと考えていますから。何かお気づきの点などあれば、教えていただきたいぐらいです」
 質問するとき少し前のめりになるところは、学生のころと変わっていない。千草はなんだか懐かしくなって、ほほえみながら答えた。

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隠された蜜戯

隠された蜜戯恋人は元カレの……

著  者
イラスト
wara
レーベル
eロマンス文庫
価  格
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