窓際係長は私を好きすぎて出世できない

窓際係長は私を好きすぎて出世できない
第1回

窓際係長は私を好きすぎて出世できない

2016/05/27公開
 校了前の出版社のオフィスは、まるで遊園地だ。コピー機は観覧車のようにひたすらまわり続け、各部署の長たちはパレードのように声を張り上げ、社員たちはさながらジェットコースターのように書類の束を抱えて行き来している。
 一般事務員として働く美和子もまた、いつ終わるかもわからない雑用に追われていたが、それらをちらと眺めていることができる余裕はあった。
 周囲が巻き起こすほこりにときおりむせ返りながら、早く昼休みがきてくれないかと願い、美和子が帳簿を処理していると、ふと誰かの影がデスクの前で止まった。
 紺のスーツ姿が視界をかすめたので、すぐに男性だとわかる。
 しかし振り返る前に、彼は味気ないメモ書きを机に乗せ、そそくさと立ち去ってしまう。
 何も指示されなかったので怪訝には思ったものの、ひとまずは急ぎの仕事ではないかと焦り、残されていた黄色い付箋のぞきこむ。
 瞬間、美和子の顔が羞恥に染まっていく。

“昼休み 4F 会議室B”

 たったそれだけで、差出人がわかった。
 5階建てのビルにはすべて、雑誌や冊子を定期的に発行している出版社が入っている。中堅ではあるが上場はしており、それなりに有名な会社なのだ。
 5階は社長室を主としているので、社員が普通に入れるのは実質この4階までだ。
 ここは客間のほかに会議室や備品室、資料室などが整然と並ぶエリアで、校了前は当然、打ち合わせをする必要も来客をもてなす余裕もないため、いまは閑散としているはずだ。
 この忙しいときに、そのような数々の場所の中で、どこに人がこないか熟知しているのは、美和子にはひとりしか思い当たらない。
 しだいに鼓動を速める心臓の音が聞こえないよう、美和子は努めて冷静を装い、与えられた仕事に没頭しようとした――が、頭をよぎるのは、後悔してもしきれない、あのあやまちばかり……。
 とても集中など、できそうになかった。
 つい、そっと“彼”の机のほうに視線を向けると、ちょうど席に戻っていたらしい係長と、なんと目が合ってしまった。

「っ……!!」

 どきりと心臓を跳ねさせた美和子とは対照的に、しかし係長はわずかに眉を上げただけで、すぐに机に視線を落としてしまう。

「…………」

 それからはまったくこちらを見ようともしないことを、なぜか寂しく思いながら、美和子は昨日の出来事を思い返していた――。


 その日、写真のデータに不備が見つかった編集部は、大恐慌に陥っていた。
 該当写真の最新情報が確認できるまで、念のために差し替えの準備をする必要になり、社員たちはことのほか、せわしなく立ち回っていた。
 そんな中で美和子が命じられたのは、資料室の整理だった。
 こうした事態が発生するのは資料の整理が徹底されていないから、という結論に至ったらしい。
 美和子はそのとき、きっちりと切りそろえられた黒のストレートロングの髪を怒りでふるわせながら 、びしりと着こなしたブラウスとタイトスカート、ハイヒールをうらめしく思っていた。
 これではひっつめ頭に、トレーナーとジーンズ、スニーカーでいても変わらないではないかと、胸中で不平をこぼしていたのだ。
 会社が発行している雑誌や冊子の制作に、直接的に関われないことはもとよりわかっていたが、少なくない寂しさとあきらかな劣等感はたぶん、この先もぬぐえないだろう。
 しかし短大出身で今年25歳を迎える美和子の場合、これだけの企業に一般事務としてでも入社したこと自体が、すでに奇跡のようなものであった。
 面接官のひとりだった編集長が何かにつけて、「若い子が欲しかったから」、「かわいい子がいると和む」などと言うので、華やかな顔立ちも入社に少なからず影響しているに違いない。
 冗談めかしたもの言いだったが、上司や取引先にも、美和子がお茶を出していると、そのような紹介のしかたをされるため、あながち誤解とも言えないはずだ。
 地方に住む両親は、ひとり娘の美和子が東京で立派な職場に勤めていることを誇りに思っており、何かにつけて近所で美和子の話をしているのだという。
 だからより、会社が危機的状況の中で、力になれていない自分が、ひどくみじめだった。
 大事なときに、あとでもかまわない資料室の整理を押しつけられるなど、その最たるものであろう。
 アルバイトとして入社して5年、ついに社員に昇格して新しい部署に配置されてから3ヵ月が経つが、上司や同僚との関係は比較的に良好で、たまには残業もあるけれど、ちょっとぜいたくできるくらいの給料がもらえるのだから、かなり恵まれた環境だ。
 待遇に、不満はない。
 けれど、仕事の充足感もない。
 美和子は日ごとに増していく、そんな葛藤を抱えてこんでいた。
 エレベーターの扉が開くと、4階の廊下は想像を超えてひと気がなく、しんとしていた。
 空調機の音が、やけにうるさく耳に響く。
 並び立つ扉がかたくなに閉ざされている様は、硬質的な印象をもたらし、美和子は自然、こくりと息を飲む。
 かつんと足を踏み出すと、背後のエレベーターはすぐさま階下に去っていった。
 1階から3階の各部署は、いまも猛烈な忙しさに見舞われていることだろう。
 美和子はきゅっと口を引き結ぶと、涙がこぼれ落ちないよう顔を上向かせたまま、さっそく資料室のプレートを探して歩きはじめた。
 歩調がどうしてもゆっくりになってしまうのは、まだ社内を正確に把握できていないうえに、行き先が一度も訪れたことのない資料室のためである。
 会議室A……会議室B……と、美和子は立ち止まった。
 三つめの扉がそうらしい。
 銀色のノブを、そっと回してみる。
 ぎいっときしみながら、扉が部屋に向かって開いていく。
 入ったとたん、美和子はうっと頬を引きつらせた。
 資料室というくらいだから覚悟はしていたが、美和子の背より高いスチール棚がところ狭しと並び、あちこちに古い書類の山がそびえ、足の踏み場もないほどに雑誌や冊子のバックナンバーが置かれ、そのまま放置されているというありさまであった。
 資料室とは名ばかりの物置部屋だと、ここにくる前に先輩から教えられていたが、まさにその言葉どおりだった。
 それもそのはずで、なまじ部署が多いこの会社には、フロアごとにきちんと整理された資料室がすでに存在しているのだ。
 つまり美和子は、ここには掃除にやってきたようなものであった。
 気持ちが沈むと同時に、雑然とした部屋がひどく気味悪く思えてきた。
 昼間なのにブラインドが下りているせいかもしれない。
 ほのかに暗いことも、陰気な印象に拍車をかけていたからだ。
 ブラインドの隙間からは、まばゆいばかりの陽光が漏れ出ている。
 気が進まなかったが、いったい資料室がどういう状態にあるのか、ひとまず正確に把握しなければなるまい。
 そう思った美和子が書類の波をかき分けるように足を進め、なんとか窓辺に向かおうともがいていると――唐突に、ぐにっという感触が靴底に当たった。

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窓際係長は私を好きすぎて出世できない

窓際係長は私を好きすぎて出世できない

著  者
御子柴くれは
イラスト
ルシヴィオ
レーベル
eロマンス文庫
価  格
454 円(税抜)
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