笑え、リビドー!

[プロローグ]喘ぎ声、聞かせてよ
第1回

[プロローグ]喘ぎ声、聞かせてよ

2017/05/26公開
「――平田(ひらた)さんて、可愛いよね」

 その日、平田嘉奈(かな)には悪運の神がついていたとしか思えなかった。
 朝から鳥のフンの直撃を肩に受け、上司には八つ当たりに近い説教を喰らった上での言いがかりサービス残業一時間、あげくの果てに自宅の鍵を会社のロッカーに忘れてしまった。
 気がついたのは自宅前。その日にかぎって、父は出張、母は飲み会、妹はデートという、悪魔的采配で、嘉奈の選択肢は極限まで狭められていた。

「うあああああ!」

 と叫んでみたが、叫んだところで鍵が口から出てくるわけもなく。かといって、いつ帰ってくるかわからない母と妹を待つわけにもいかないので、しぶしぶ会社に戻る決意をした。
 守衛に忘れ物をしたと断って社内に入り、女子更衣室で事務服のポケットから鍵を取り出し、さて帰ろうかとしたその時に、本日最後の厄災がふりかかった。
 女子更衣室と男子更衣室の間に位置する喫煙室から、冒頭の言葉が耳に届いたのだ。
 嘉奈の勤務する九条(くじょう)ドキュメントは、女性社員が間接員である事務職に多い。そのせいか、残業をしているのはもっぱら男性社員ばかりだ。中には男性と対等に仕事をこなしている女性社員もいるが、今、喫煙室の中にいる人間は、男性社員だけのようだ。だからこそ女性の話をできるのだろうが、まさか外で女性社員が聞いているとは思わなかったのだろう。

「平田ぁ? そんなに可愛かったか?」

 この声は、嘉奈の所属する部署で隣グループの若手主任、雪城(ゆきしろ)だ。三十代前半のわりには童顔で、ヒョロリとした草食系男子。
 嘉奈は眉間にしわをグッと寄せた。雪城の好みが嘉奈でないように、嘉奈の好みだって雪城ではない。可愛くなくて悪かったなと思いつつ、自分を褒めたのは誰だ! と聞き耳を立ててしまう。

「顔はまあまあだし、スタイルだって普通だけど、僕の好みなんですよ」

(こ、こ、この声は――!)

 思わず声をあげなかった自分を褒めてあげたかった。
 その艶のある声に聞き覚えがあった。嘉奈の聞き間違いでなければこの声の主は――。

「へえ。ハイジってああいう子が好みなんだ」

 と雪城が話しかけている相手は、真野(まの)灰路(はいじ)。
 設計部の若手ホープ、御年二十八歳の稼ぎ頭。スラリとした長身の、少し長めの前髪を真ん中で分け、理知的な銀縁眼鏡をかけた男だった。
 九条ドキュメント一の美男子というわけでもないが、五本の指には入る。
 乙女ゲームで喩えるなら生徒会副会長。腹黒参謀役といったところか。
 そんな見た目に加味して、灰路は話術センスに富み、いつも嘉奈に面白い話題を提供してくれる、嘉奈にとっては親しみやすい相手だった。
 決して嫌いではない。
 むしろ好意的に見ていた相手の、自分への思わぬ高評価に、嘉奈の胸がキュンと弾んだ。
 だが、この時、嘉奈は忘れていた。
 本日、嘉奈はかなりの悪運づいた日だったことを――。

「いったい、灰路は平田の何が好みなわけ?」

(それは私もぜひ聞きたいです!)

 女、二十五歳。結婚適齢期に突入だ。彼氏なし三年の枯れ女に、その情報はぜひとも知りたいものだった。
 あわよくば、灰路とお近づきになりたい――とその一瞬までは思った。その一瞬、までは。
 しかし次の瞬間、灰路の言った言葉に、嘉奈は石と化す。

「彼女の声が好きですね。笑い声――あの声を聞いていると、自分で喘がせてみたくなります」

(ん――?)

 前半はまだいい。だが後半部分が、一瞬、何を言われているのか分からなかった。

「ブハッ! 出たよ、灰路の変態性癖」

 雪城の吹き出す笑い声と、聞きたくなかった『変態性癖』という言葉。

「女の笑い声で喘ぎ声を想像するのなんて、普通でしょう?」

「ぶはははは。普通じゃねえよ、お前くらいだよ。笑っている女の声が喘ぎ声に聞こえんの」

「聞こえているわけではなく、想像できるって話です。笑い声を聞いて、よさそうな女がいるとクるんです。平田さんの笑い声は、ドンピシャ、僕の好みなんですよね。勃ちます」

(何が立つのよ。いや、ナニなんでしょうけど、いやいやいや……)

 聞いた瞬間にこの記憶を消去したくなった。
 まさか、自分の笑い声を聴いて、灰路が欲情しているとは思いもしなかった。今までの出来事が走馬灯のように頭の中をよぎっていく。

(だから、あんなに面白い話を私に聞かせてくれていたのかーー!)

 嘉奈が笑うと、珍しく灰路も目元をほころばせて微笑む。その目元が色っぽいな、と思っていた過去の自分に警告したい。
 その時、その男はお前の声に反応して、勃起していたんだと。

(ない。結論、これはない)

「僕、ボイレコに平田さんの笑い声、録音して持っていますから」

「ぶほっ! 勘弁しろよーー! そんなん、俺に聞かせてどんだけドン引きさせたいんだよっ!」

(ドン引きしたいのはこっちのほうです!)

 泣きたくなってきた。笑い声の録音なんていつの時のだと思ったし、今すぐ消してほしかった。ふるふると体が震えるのは、寒いからでは当然ない。
 嘉奈は顔を真っ赤にしながら喫煙室を睨みつける。
 そのタイミングで、まるで狙ったかのように、喫煙室の中から雪城と灰路が出てきた。
 雪城は目の前で顔を赤くしている嘉奈を見て、「ゲッ!」と叫んで青ざめた。
 しかし、一番青ざめるべき灰路は、一瞬だけ目を見開くと、クイッと口角をあげて、それからわざわざ嘉奈に聞いてくる。

「聞いていたの?」

「き、聞いていたんじゃなくて、聞こえたんですっ……!」

 震える声でそう返せば、灰路は悪びれもせず嘉奈に言う。

「じゃあ、笑ってみせてよ、平田さん」

 銀縁の眼鏡フレームがキラリと光り、そのレンズの奥で、面白そうに灰路の目が細められた。
 思えばその日は朝からついていなかった。鳥のフン、お説教からの残業、鍵を忘れる。
 そしてトドメは、変態のターゲット。
 何かに呪われましたか、私? と嘉奈が自問自答したところで、答えは当然出てこない。
 しかし、この日を境に嘉奈は灰路からの果敢なアプローチに悩まされることになる。
 もちろん、「付き合ってほしい」なんて生易しいものじゃない。

「喘ぎ声、聞かせてよ、平田さん」

 確かに、嘉奈は恋人が欲しかった。大学を卒業してから恋人がいないので、新しい恋をしてみたかった。

(だけど、こんな恋が欲しかったわけじゃないんですけどぉぉぉぉーー!)

 欲しかったのは恋人で、ボイスレコーダー片手に、自分の喘ぎ声を欲しがる『変態』ではなかったはずなのに――。

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御主珍様が見える! ××をもげます!消せます!千切ります!

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笑え、リビドー!

笑え、リビドー!あなたが欲しいのはイケメンですか? いいえ、変態です!?【電子書籍版】

著  者
エノキユウ
イラスト
柾木見月
レーベル
eロマンスロイヤル
価  格
1200 円(税抜)
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