死ぬはずだった婚約者の病気が全快したので婚約解消しようと思います【電子書籍版】

死ぬはずだった婚約者の病気が全快したので婚約解消しようと思います
第1回

死ぬはずだった婚約者の病気が全快したので婚約解消しようと思います

2018/01/25公開

プロローグ さよなら、愛しい貴方

 質実剛健、というには少し柔らかい印象の公爵邸を訪れるのは、きっと今日が最後です。
 ただの子爵令嬢、それも二男三女の末娘の私をこれほど可愛がってくださった公爵家の皆様には、身の程知らずにも家族のような思いを抱いています。穏やかに思慮深いお祖母様、凜として気高いお母様、豪放磊落なお父様、繊細で芸術家肌の弟君。
 そして……そして、この上なく麗しいシリル様ご本人。
 この方々と家族になれたら、私にとってどれほど幸福なことでしょう。たとえシリル様の命が明日で尽きるとしても、たった一日でも本当の家族になれたら、私はその思い出だけで生きていけます。憧れのシリル様。身分だけではなく、私には不釣り合いな美貌をお持ちのシリル様。心からお慕いしている、片恋の君。
 ですが、女神様はシリル様を見放されませんでした。シリル様は全快されたのです!
 低い身分の私との、仮初の婚約を解消されて、新しい未来の幸せをつかみ取る時が、ついに来たのです。
 大丈夫、シリル様の幸せの邪魔なんて、絶対に致しません。
 私は陰からずっと、シリル様の幸せを息を潜めて祈っております。シリル様にそんな私ができる、一番良い贈り物は……この、仮初の婚約を破棄することです。
 シリル様がご自身のご身分と、麗しさに見合った方と結ばれるために、私は今日、婚約を解消しに参りました!


 昼を過ぎて明るい日差しが射し込む応接間は、美しい木目の家具でセンス良く彩られていました。私がこの応接間にお邪魔するのは婚約が成立した時以来ですから、半年ぶりということになります。
 部屋には公爵家の方々以外に、これまで何かとお世話になってきた執事のマクシムさんと、侍女のカロルさんが気配を消したように佇んでいます。カロルさんには特に『婚約者』としてお世話になってきたのですから、この場にカロルさんがいるということがどこか切なくも感じます。
「オレリー……どうしてそんなことを言うの? わたくし達が貴女にどれほど感謝しているか、伝わらなかったのかしら……」
 お母様――いえ、公爵夫人がそう、悲しげに口火を切られました。凜とした月の女神のような美貌は、哀しみに曇っても冴え渡る光を失うことはありません。
 公爵夫人の冴え冴えとした黒髪にどれほど憧れを抱いたことでしょう。シリル様と瓜二つのしっとり艶やかな長い髪を、一度でいいからくしけずってみたかったものです。くしけずる私と公爵夫人の視線が鏡越しに合って……あぁ、修道女になるより公爵夫人の侍女になりたいとさえ思ってしまいます。女神様にお仕えしようとする私の心を惑わす美貌、なんて恐ろしい……!
「……シリル様に相応しい方と、幸せになっていただきたいのです」
 この場に、シリル様はいらっしゃいません。シリル様はとても優しい方なのです。私のように地味で冴えない茶色い髪の娘が新しい婚約者としてご挨拶しても、冷たい美貌に非難めいたものなどほんの僅かも浮かべたりなさらない、誇り高い方。苦しい病床でも、決して弱音を吐かれない、高潔な方。
 そんなシリル様が婚約解消のことを知ってしまわれたら……きっと、引き留めてくださると思うのです。シリル様ご自身がどれだけ婚約解消を望まれても、ご自分の美学に沿わないことだけは決してなさらない、真に高貴な魂をお持ちの方なのです。ですから、お父様――いえ、公爵様と公爵夫人、先代の公爵夫人だけにこうしてお話をしています。
「わたくし達は、貴女がシリルに相応しくないとは思っていませんよ。どちらかというと……相応しくないのはシリルの方ですね。貴女のような素晴らしい令嬢と結婚できるなど、どれほどの殿方がそれを乞い願うことか」
 先代の公爵夫人がそう、茶目っ気たっぷりに笑われました。
 この方はとてもユーモアがお上手で、人の心を和ませるのに長けた方です。そのお心遣いにどれだけ私も癒やされてきたことか。夏の空にフワフワと浮かぶ、柔らかい真っ白な雲のような髪と、シリル様と同じ明け方の空のような藍色の目をお持ちの大奥様。……ですが、今日はこの方のユーモアも空回りしているようです。シリル様が私に相応しくないだなんて、そんな冗談は誰の心もくすぐらないでしょうに。月と地面に転がる白い石ほど差がある私達。私がシリル様に相応しくないのは誰より分かっています。
「そうだな、オレリーの婚約が解消されたとなると、我も我もと動き始める男共が目に浮かぶようだよ」
 公爵様が真っ黒い髭を捻りながらそう仰いました。
 いつも豪快な笑いを絶やさない公爵様なのに、今はとても生真面目な表情をしていらっしゃいます。そんな言い方で私の傷心を慰めようとしてくださるなんて、とても優しいお父様――公爵様です。ですが……ちょっと無理があると思います。子爵という、貴族の末端にいる、しかも婚期を半分過ぎたような娘に、どれほどの殿方が目を留めてくださることか。とはいえ、私にだって将来の展望はあります。立派な修道女になって、女神様にお仕えするんですから!
「オレリー、シリルに愛想が尽きてしまったのね? あの子ったら訳の分からない理屈で貴女に冷たく当たって……だから貴女から婚約を解消されてしまう羽目になって……なんて愚かな子……」
 お、お母様……ちょっと最後の方、地を這うような低い響きを感じてしまって怖かったです……。い、いえ、公爵夫人でした。私ったら今までの癖が抜けなくて、本当にお恥ずかしいです。こんな間の抜けた娘にまで気遣ってくださる公爵ご夫妻と先代の公爵夫人は、なんてお優しいのでしょう!
 でも、今は……長い片恋のお相手との婚約を、心ならずも解消しなければならない今この時にあっては、そのお優しさは少し辛いです。
「どうか、私への憐れみに捕らわれて、シリル様の輝かしい未来を閉ざさないでくださいませ。シリル様にはこの上なく優れたご令嬢と手を取り合う、素晴らしい未来が待っているのですから」
 にっこり笑って言うつもりだったのです。でも……少しだけ、ほんの少しだけ涙が滲んでしまったことは許していただきたいものです。だって、未練はありますもの。シリル様の優しさに縋って、シリル様の未来に入り込もうとする醜い私だっているのですから。

「相分かった!」
 しんみりした私達の空気を断つように、公爵様が膝を打ちながらそう仰いました。
「オレリーがそこまで言うなら、そう言わせたシリルにも責任はある。……オレリー、君は我が家の天使だった。君がいてくれたこの半年が、どれほどかけがえのないものだったか、我々はゆめゆめ忘れぬよ。オレリー――いや、オレリー嬢。今まで貴女が当家に尽くしてくれたことを、心より感謝する。貴女が助けを必要としたなら、いつでもこのマコーミック公爵家は貴女のために動くだろう」
 こ、公爵様……!
「オレリー、嬢。貴女にこんな決断をさせた馬鹿息子を許してちょうだい。いつでも戻って来て欲しいのだけれど……その前にまずはシリルを矯正しなければ……」
 公爵夫人……? あの、ちょっと声が低いっていうか……その、いつもの公爵夫人がいいなぁなんて思うのです、オレリーは。
「オレリー、私の可愛い孫娘。誰がなんと言おうと、貴女は私の孫娘ですよ」
 お祖母様……! 私には祖母はもういないので、私にとってもお祖母様が唯一のお祖母様です……! こっそりと心の中だけで呼ばせていただきますね……!

 涙ながらに別れを告げ、そうして私は公爵邸での仮初の婚約者という務めを全うしたのでした。愛する方の幸せを、祈りながら……。
 気づけば十八の誕生日を過ぎていた、ある春の午後のことでした。

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著  者
マツガサキヒロ
イラスト
三浦ひらく
レーベル
eロマンスロイヤル
価  格
1200 円(税抜)
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