『それ』が起こったのは、突然のことだった。
 収穫の季節が終わり、我が子がずり這いを覚え、そろそろ二人目の子どもについて考えようかと思い始めた頃のこと。
 いつもどおり、愛しい我が妻に送り出されて、いつもどおりに仕事をこなし、いつもどおりに家に帰ってきたとき、事態はすでに一変していた。
 最初に違和感を覚えたのは、門をくぐってすぐに会うはずの庭師が、家の扉にたどり着いても現れなかったことだ。
 気のいい庭師のノーツは、普段であれば真っ先に挨拶をしてくれる。
 この時点で、少し嫌な予感がした。
 玄関の扉を開けると、血相を変えた侍女のサリア駆け寄ってきた。
 その少しうしろには、不安げな表情を隠しもしない乳母のマーサが。
 マーサの肉の多い腕の中で、息子がぐずっている。
 いつもであれば、真っ先に出迎えてくれるはずの妻がいない。
 とっさに、腰元に下げた剣を意識した。
「何ごとだ」
「あの、旦那さま……奥さまが」
「どこにいる」
「いまは、私室に」
 それを聞くや否や、足早に部屋へと向かう。
 使用人たちに、焦燥の色はない。
 どちらかと言えば、当惑のほうが強い印象だった。
 であれば、チカに起こっているのは、危険なことではないはずだ。
 そう自分に言い聞かせるものの、不安感は拭いきれない。
 主寝室での共寝がほとんどなせいで、めったに足を踏み入れることのないチカの私室。
 本人の好みを考慮して選んだ、シンプルながらも優美な曲線の彫刻を施した扉を、二度ほど叩いた。
 部屋の中で、息を飲む気配。
 普段ならば、どうぞと声がかかるはず。
 だが、しばらく待ってみても扉の向こうから反応はなかった。
「チカ、俺だ」
 語りかけてみても、状況は変わらない。
 ガタガタと動く気配がして、木と木のこすれる鈍い音が届く。
 窓を開けているのだと理解した瞬間、扉を蹴破った。
 無残に吹き飛んだ扉の前に、椅子や机が積まれている。
 状況から察するに、バリケードのつもりだったのだろう。
 そしてその奥の窓際に、チカは立っていた。
 開いた窓から、思いきり身体を乗り出して。
 押し入った自分を見て慌てた様子で、外へ視線をやる。
 反射的に、飛び降りるつもりだと判断した。
「何をしてる!!」
 乱雑に組まれた家具を、片手で殴るようにどかす。
 あっけにとられた様子でこちらを見るチカを、窓から引き戻した。
 軽い身体はそれだけであっさりと腕の中に収まったが、自分の心臓は未だに早鐘を打っている。
「何を……いや、どういうつもりで……」
 たいした運動ではなかったはずだが、息が切れる。
 冷静に問いただそうと思っていたのに、声にはどうしても怒気がこもった。
 ひとまず彼女の全身を見てみるが、怪我はない。
 安心して息を吐いたあたりで、違和感に気づいた。
 腕の中の華奢な身体は、小さく震えている。
「……チカ?」
 名前を呼んでみるが、返事はない。
 それどころか、胸のあたりで握り締められていた小さなこぶしに、さらに力が入るのが見えた。血色の失せた唇が、「だれ」と音もなく形を変えた。



「記憶喪失?」
 人の少ない執務室の中、ジルドレが裏返った声を上げた。
「正確には、記憶退行、だな」
 机にひじをついたダグラスが、額を押さえながらそれに答える。
 正直に言えば、頭を抱え込んでしまいたいぐらいなのだが、職場での威厳を考えるとそれもできない。中間管理職はつらい。
「使用人たちが気づいたころには、ここ何年かの記憶をすっかり忘れてしまっていたらしい」
 なんとも突飛な展開だ。
 しかし、そういう冗談を言うタイプの上司ではないと、ジルドレはよく知っている。
「どうしてまた急に」
「不明だ。医者が言うには、雪精のいたずらかもしれんと」
「あぁ、冷え込みましたもんね昨日」
 普通の人間には見ることのできない存在、それが精霊だ。
 いまは眠る湖の季節であるため、雪精が活発である。
 基本的には無害であるが、時々こうして人を混乱させるのだ。
「じゃあ、記憶を凍らされたってことですか」
「だろうな。くわしくは、精霊術師を呼んでからになる」
 精霊術師は、ウィステリア国にはさして多くない。
 そもそも山や森の、自然豊かな場所を好んで定住せずうろついている。
 そのうえ、徹底した個人平和主義だ。
 ウィステリアは、最近戦争をした国家。
 精霊術師は、戦火を嫌う傾向にある。
 おそらく、いまは穢れに触れないために避けているはずだ。
「何年分、凍らされたんですか?」
「少なくとも、俺とチカが出会うより以前」
 思っていたよりも悪い状況に、ジルドレから自然と「うわぁ」と声が出た。
 忌々しげにこちらに視線をやる上司に気づき、だらしなく開いた口を慌てて閉じる。
 ダグラスと、出会う以前。
 つまり、「ダグラスの顔の怖さに免疫がないころ」だ。
 気がつくと見知らぬ場所にいて、混乱のままに逃げ出そうとしたところを、筋骨隆々の強面男に腕力で阻止されて、ものすごい形相で怒鳴《どな》られた。
 何年退行したかは知らないが、若い娘さんには衝撃だったことだろう。
 もちろん、悪い意味で。
「それで、いまはどうしているんです」
「使用人監督のもとで、静養させている」
「うわぁ」
 上司が、ふたたびジルドレを睨む。
 今度の剣呑な視線は、「説明しろ」の意だ。
「チカちゃん、たぶん、軟禁されてるって思ってますよ」
 上司の青灰色の目が、くわっと開いた。

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異世界で奴隷になりましたがご主人さまは私に欲情しません[5]

異世界で奴隷になりましたがご主人さまは私に欲情しません[5]

著  者
鳥下ビニール
イラスト
国原
レーベル
eロマンスロイヤル
価  格
648 円(税抜)
シリーズ
異世界で奴隷になりましたが
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