梓紗《あずさ》は腕時計の針を見て、諦めたようにため息を吐き出した。
 最近はいつもこの時間帯だ。深夜の十一時三十分過ぎ。会社に奉仕しているつもりはないが、毎日の終電間際までの残業には正直辟易する。おかげで趣味は貯金だ。通帳の桁が増えるのが楽しいアラサーって、自分のことながら本気で虚しさを感じる。会社の若い女の子たちにお局様と陰で言われているのは、もう慣れた。今にお前たちに天罰が下るぞ! なんて内心思っていないとやっていられない。
 自分より遅く入社した男性に先を越され、女性がなかなか出世できない日本の社会。男女無差別なんて叫ばれる昨今だが、現実にはしっかりと差別の悪習は根付いているのだ。真面目な性格の人間ほど粗略な扱いを受ける。そういう人間が馬鹿を見る社会。理不尽なことだが、それが現実だ。
「もうフラフラだよ~」
 男性からは「気が強いうえに仕事もデキる女は妻には向かない」と思われているのを知っているが、仕事一筋でやってきた梓紗には真面目に働く以外にどうすればいいのかわからない。
 もう来月で三十歳だ。
 二十七歳くらいで肌が急に変わった。化粧のノリも悪くなって、疲れも取れにくくなった。焦って婚活にも力を入れたが、二十七歳という年齢は婚活をスタートするには遅すぎた。様々なパーティにも参加したが、そういう場所に集まる人たちは二十二歳前後。男性はもちろん可愛らしくふわふわした女の子たちの下へ行ってしまう。梓紗のようにリクルートスーツで身を固めた硬質な女ははなから除外対象だ。「若い女の子は自力で探せよ!」と心の中で何度叫んだことか。
 結局、婚活は虚しくなって一年でやめてしまった。自分には仕事しか残っていない。そしていっぱいお金を貯めて老後は苦労せずに楽しく遊ぶのだ! と思っていた矢先、テレビで老後生活の苦しさや虚しさを訴える番組を見てそれさえも揺らぐ。
 お金があっても体力は衰えるもの。遊ぶのにも限界は見えていた。
「はあ~、これからどうするかね~」
 三十歳を目前にして自分の未来に迷いが生じるとは思いもしなかった。
 自分なりに考えて将来設計をしていたが、そう上手くはいかないらしい。
 このまま今の会社にいてもこれ以上の出世は望めないだろう。会社の同僚にも粗雑にされて、こんな時間まで働く意味があるのだろうか?
 転職。それも今の時代難しい。三十歳を目前にした女に世間は冷たい。
 今の会社も給料だけはいいのだから、すがりついていたほうがいいだろうか?
 そう思い、大きなため息がこぼれる。
「人生諦めが肝心かな……」
 改札をくぐると最終電車の到着のアナウンスが流れた。梓紗は急いで階段を駆け上がる。最後の一段でパンプスの踵が折れた。
「ぎゃっ!」
 変な声が出た。隣のサラリーマン風の男性が胡乱な目を向けてくる。
 ここは助けてくれるところではないのか?
 こういうところでロマンスは生まれるというものではないのか?
 だが現実は怪訝な顔をされただけで終わるものなのだ。
「痛たた、あ~ストッキング破けてるぅ」
 折れてしまっては歩くことは難しい。梓紗が両方のパンプスを脱いで電車を待とうと身を屈めたとき、誰かにお尻を思いっきり押された。
「わっ! わわっ」
 たたらを踏み、梓紗の身体がぐらりと揺らぐ。周囲から悲鳴のような声が聞こえた。胡乱な目で見ていたサラリーマンの男性が青褪めた顔を向けてくる。
「危ないっ!」
 何が危ないのだ? そう思う梓紗の目に眩しい光が差し込んだ。
 その光は電車の前方にあるライト。
(ああ……私こんなところで死ぬのね)
 冷静に考える自分が可笑しく思える。
(貯金……五千万。まあ、いいか。両親にあげよう)
 そのまま梓紗は瞳を閉じた。


 思い返せば、そんなに悪い人生ではなかったように思う。
 会社での扱いや人間関係に愚痴をこぼしていたものの、残業代もきちんともらえていたし給料も良かった。
 家族に病気の者もいなかったし、仲も良好。仕事で残業が多くなって、家族を夜遅くまで待たせるのは悪いと思い一人暮らしを始めたが、一月に一度は家へ帰って母親の手料理を食べていた。
 未練はあるけどそう悪い人生ではなかったし、今死んでも……。
 そう思いながら暗い深部へと落ちようとしていた意識が無理やり引き戻される。
 頰がなんだか熱い。ジリジリと焦げるような感覚。
 大事な自慢の髪が燃えちゃうじゃないか! 女を捨てた梓紗が唯一こだわっていたもの。
 艶やかで長く腰まで伸ばしたまっすぐな髪。
 どれだけ疲れて帰ってきても、この髪の手入れだけは手を抜かなかった。
 その自慢の髪が焦げちゃうなんて許せない!
 まぶた越しに見えるオレンジ色の熱い何かを梓紗は手で払った。
 そして覚醒する。
「なんだ? 死んでないじゃないか」
 中腰になって囲み、座り込んでいる梓紗の顔を覗き込む男たちを茫然と見詰めた。
 確か自分は電車の前へ転げ落ちたはず。
 それなのになぜ生きている?
 しかもここはどこ? この男たちは誰なのだ?
 男たちは、ところどころ破けた服を着ている。臭ってきそうな不潔さで、ひげはぼうぼう。髪はぼさぼさ。よく見ると彫りが深い顔の造りをしている。薄汚れて黒に限りなく近い灰色に変色しているが、髪の色も真っ黒ではないようだ。
(日本人じゃ……ない?)
 こんな状況で混乱しないほうがおかしい。
「しかし、なんて服を着てるんだ」
「だが生地はいいもんだな」
「見たこともない形だ」
「女のくせに足を出しているし……もしかして、これが噂の上級娼婦か?」
「上級とつく娼婦がこんな田舎町にいるわけがない」
「それもそうだな~」
 男たちはガッハッハと笑い合う。
「黒髪も珍しいが、そのうえ黒目だ」
「髪も艶やかだな……」
「もしかして、どこかのお姫さんか?」
 一人の男が持っていた松明を梓紗の目の前へかざす。熱いと思った正体はこれだったようだ。前髪が焦げるような嫌な臭いがして、梓紗はその男の手を思わず払った。
「近付けないでっ! 髪が焦げるじゃないっ」
 一瞬、男たちの会話が止まる。
「……なんだ、話せるんじゃないか。お前、どこの誰だ? なんでこんなところで座っている?」
 顔を近付けて話しかけてくる男を避けるために仰け反り、梓紗は地面に手をついた。その途端、ヌルリとした感触が手に伝わってくる。不快に思い、目の前に手を持ってきて、ドキリと梓紗は心臓を凍らせた。
「……血?」
 自分の血ではないはずだ。頭は少しだけボウとしているが、身体に痛みはない。
 では、この血は誰のものなのか――視線を下げた梓紗の視界に入ったものは、女性の死体だった。
「きゃあぁぁっ!」
 梓紗の身体のすぐ脇に、腹部から血を流す五十歳くらいの女性が横たわっていた。青白い顔色をして、息をしていない。死体であると梓紗は直感的に理解した。
「あ……あぁ……」
 梓紗が後退ると囲んでいた男たちの輪が乱れ、その隙間から見えたのは人間の死体の山。
「……ひっ」
 視線を上げると、男たちの一人が持っていたものが異様にギラリと煌めいた。

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私この度、王国騎士団独身寮の家政婦をすることになりました(1)

私この度、王国騎士団独身寮の家政婦をすることになりました(1)

著  者
如月美樹
イラスト
蔦森えん
レーベル
eロマンスロイヤル
価  格
1200 円(税抜)
シリーズ
王国騎士団独身寮の家政婦
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