積み上げられた蒸籠から煙のような湯気が立ちのぼり、天秤棒を担いだ麵売りが威勢のいい声を上げる。 夜になってもまったく衰えることのない喧騒の片隅で、ディンはじっと道行く人々を見つめていた。 「よし、あの人にしよう」 ひとつ頷き、覚悟を決めて駆け出す。 街一番の繫華街を全力で駆け抜ける若い女性は、さぞかし目立っていたことだろう。しかし、俯きながら走るディンの視界には、自らが穿く藍色のロングスカートしか映らなかった。それくらい緊張していたのだ。 しばらく走って、どんっという衝撃音とともに、体が受け止められた。 第一段階はクリアだ。ほっと安堵の息を漏らし、ディンは心で何度も唱えた台詞を口にした。 「私の処女をもらってください!」 男の腕が驚いたようにピクリと震えた。 当然だろう。衝突事故のように体当たりされた上に、処女をもらってほしいと言われ、驚かないほうが不思議だ。到底、初対面の男性に頼むような願いではない。 でも、だからこそ、ディンは遊び慣れた後腐れない、いわゆるチャラそうな人に狙いを定めた。 少しでも面倒な反応をされたら、冗談でしたと笑って流せるように。 しかし、相手が発した声は予想とはずいぶん違うものだった。 「へえ、本当にもらってもいいんですか?」 想像よりも落ち着いて、どこか上品な声音に眉を寄せる。 (あれ? イメージと違う……) ディンの中では「えっ、処女? もらっちゃっていいの?」くらいの軽いノリを想像していたのだ。 なにやら嫌な予感がする。 ディンは恐る恐る視線を上げ、そして、そこにいた人物が狙いを定めた男とはまったく別人だということに、飛び上がらんばかりに驚いた。 (うそ、違う。さっきのチャラ男は?) 視線をきょろきょろ彷徨わせ、意中の男を探す。衣の胸元を大きく開けた遊び慣れた風情の男は、ディンのいる場所から二軒ほど離れた妓楼の門前で、店の呼び込み男につかまっていた。 (うっそー、あの人こっちに歩いてきてなかったの!? じゃあ、私、いったい誰にぶつかった!?) もう一度自らを抱き止める男性に視線を戻す。 どこかこの状況を楽しむように口元に薄い笑みを浮かべた男性は、青年というほど若くはなかった。チャラそうな雰囲気もない。一目で上質とわかる青緞子の羽織を身に着けている。物腰は柔らかそうだ。それなりに身分の高い貴族――いや役人? そう思った瞬間、額から大粒の汗が噴き出した。これはまずい。即刻、親元リターンコースだ。 (ど……どうしよう) 「もしかして、人違いかな」 ディンの動揺を悟った男性が、笑いながら言った。 ――人違い。紛れもなくそうだった。 親元リターンコースだけは避けたいのだ。ここはすみませんと謝って、別の人を探したほうがいい。そう頭では理解していた。理解していたはずなのに、口をついて出た言葉は、脳裏で思い描いていた言葉とは裏腹だった。 後から思い返しても、なぜあんなことを言ってしまったのだろうと思う。物腰が柔らかかったからか、衣から漂う落ち着いた香の匂いに気持ちが緩んだからか。とにかく、その瞬間、一日中張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
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皇帝陛下をその気にさせるAtoZ
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