深夜に城を出た梓紗《あずさ》。暗くて何も見えないとわかっているのに、外を見たくなってしまう。
 自分がこの国にとって重要人物らしいことをようやく自覚したが、外から梓紗のことが見えないようにと馬車に掛けられた黒い布をめくりたくてしかたがない。まだ、この国の民には『渡り人』が降臨したことは知らされていない。その民たちに梓紗の顔を見られてはならないという理由だとわかってはいるのだが。
「アズサ殿……」
 王国騎士団近衛騎士団長カイル・ゴルドーニに注意されて、無意識に伸ばした手を引っ込める。
 心身ともに疲れ果てた梓紗のためにこのマルガリード王国の国王クレマンテが、気晴らしにと外出をすすめてくれたのだ。数日後には、重大な仕事が控えているからこそ、いまは何も考えずに休むことに専念すべきだろう。
「着きましたよ」
 玄関ホールに入ると梓紗の胸の奥にぶわりと温かな何かが満ち溢れた。この世界に来て、この騎士団独身寮にいた時間はほんのわずかだ。半日にも満たない間しかいなかったのに、なぜこんなにも懐かしく感じるのか……。
 優しく包み込むようなサフィナの笑顔が梓紗を出迎えてくれた。
「アズサさんはお風呂には入ってきたのかしら?」
「はい、お城でいただきました」
 サフィナはそれに笑顔で頷いた。
「ではあとはもう寝るだけね」
「はい」
 二人の会話を騎士たちは黙って聞いている。何だか、それが恥ずかしい。
 「クレマンテ様が私たちの離れを作ってくださったの。二階建てのとても可愛らしいお屋敷よ」
「すごく楽しみです」
「サフィナ殿、アズサ殿は疲れている様子ですので、もう……」
 カイルの言葉にサフィナは口元に手を当てた。
「あら、いやだわ。私ったらおしゃべりだわね。もう離れで休みましょう。お話は明日ね」
 梓紗は微笑みながら頷き、自分の帰還を待ってくれていた騎士たちを見上げた。
「皆さん、これからよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします。アズサ殿」
 代表で、カイルがそう言うとサフィナが梓紗の手を引いた。
「参りましょう。アズサさん」
 玄関から一度外へ出ると思っていたのだが、サフィナは寮の左側に歩を進めた。
「あら? 外へは出ないのですか?」
「こちらからも外へ出られるのよ。渡り廊下にしてくださったから、雨の日も心配はいらないわ。離れの外観は、明日一緒に見ましょうね」
 サフィナも梓紗がここへ戻ってくると聞いた日からこの日をどんなに楽しみにしていたことか。
 長く王宮に勤めていたサフィナは結婚をしていなかった。梓紗くらいの歳の娘、いや孫がいてもおかしくない年齢である。
 身寄りのない梓紗の祖母になれればとサフィナは考えていた。
「ここがお勝手口ね。ここから出たほうがお台所には近いわね」
 母屋の台所と離れの台所が繫がっているみたいで面白いなと梓紗は思った。
「門を入って真ん中に母屋。左に離れ。そして右には騎士たちの自主訓練場があるの。朝早くからする子もいるけれど、こちらまで音はそう聞こえないと思うわ」
 騎士団塔でも訓練をしていた彼らなのに、寮でもするのだと聞いて梓紗は驚いた。騎士、しかも近衛騎士であるためには、やはり多くの努力が必要らしい。
(騎士様たちの憧れの存在だというしね)
 いつかは自分たちも近衛騎士にと望む騎士は多いはずだ。
 近衛騎士が辞するのは、結婚をする時、もしくは怪我などで王族を守る使命を果たせなくなった時だという。過酷と言っても過言ではない立場。だからこそ、誇りを胸に訓練に勤しむのだろう。
「大変ですね、騎士様も」
「そうね、それを私たちが支えるのですよ」
 支える。
 その言葉に俄然やる気が出てきた。
「頑張ります!」
「でもまずはここでの暮らしに慣れることね。二、三日はゆっくりしてちょうだい」
 いいのだろうか。城での生活で充分にゆっくりさせてもらったと思うのだが。
 でも、これからはサフィナが梓紗の上司なのだ。サフィナの心遣いに素直に感謝しよう。
「はい、ありがとうございます」
 台所を抜けると廊下に出る。そのまま進むと離れの玄関にたどり着いた。
「ここが玄関ね。お部屋は二階よ」
 サフィナが先に階段を上り案内してくれる。
 火が灯っているのはサフィナが用意してくれていたのだろう。
 階段を上ると廊下をはさんで二部屋あった。
「右が貴女。左が私の部屋ね」
 そう言いながら、サフィナは自分の部屋を一度開けて見せてくれた。
「貴女の部屋とほぼ同じ作りなの。色は違うけどね。家具は母屋で使っていたものを入れたのよ」
 サフィナの私室は薄い緑色を基調に整えられていた。
「アズサさんのお部屋は可愛らしいわよ。クレマンテ様が家具にもこだわっていらしたようだから」
 くすくす笑いながらサフィナが先導する。
 カチャリと扉を開けると、ものすごい光景が広がっていた。
(か……可愛いっ!)
 壁紙が白地にピンクの小花模様で、寝具は薄紅色。家具は木目を生かした落ち着いた雰囲気のもの。しかも意匠が見事で、素晴らしいものだった。
 室内にはピンクと小花がふんだんにちりばめられているのに、ごてごてとしたくどさはない。
 絶妙なところで纏められている。
 (これをあの陛下が……?)
 そう思うとちょっと複雑ではあったが。
 「この鏡台なんて王都一の工房で作らせた一品ものよ」
 「お……王都一ですか?」
 その鏡台の意匠は梓紗好みで一番可愛いとは思っていたが、まさか王都一の工房で作らせていたとは思わなかった。
 「どれだけお金がかかっているのですか、この部屋っ!?」
 すごく心配になって思わず叫んでしまった。
 「ふふふ、さあ? でも聞かないほうが賢明ね。聞いたら眠れなくなるわ」
 「………」
 (聞かないよ。聞かないけど。でも、すごく気になる……)
 梓紗は『はふぅ~』と大きく息を吐いて、眉をハの字にした。
 「今夜は何も考えずにお眠りなさいな。また明日ね。ゆっくり起きてきてもかまわないわよ」
 「はい、おやすみなさい」
 サフィナが部屋を出ると、梓紗は寝台の上にポフンと腰を下ろした。
 一人になって、梓紗はいままであった様々なことに思いを巡らせた。
『渡り人』のことが書かれた文献は本当に少なくて、結局は自分がなぜこの世界へ来たのか、そしてそれは誰によってなされたことなのかすべてわからないままだ。
 帰れるのか、それとも一生この世界で生きなくてはならないのか。もしそうなら、改めてこの国で生きていく術を身につけねばならないだろう。
 異世界へ来たことで能力が芽生えたのか、梓紗はあらゆる国の言葉が理解できる。国交のない国との折衝の際、通訳として役立てるかもしれないが、マルガリード王国は今現在特に新たな外交を望んではいない。
 ならば残された道はひとつ。クレマンテの提案によって得た仕事、王国近衛騎士団独身寮の家政婦として、しっかりと働くべきだろう。
 この国の人たちは皆、梓紗に優しく接してくれる。梓紗が『渡り人』という貴重な存在であるとしても、過分な計らいをしてくれていることは確かだ。
 日本にいたときより、もしかしたら住環境や人間関係は良好かもしれない。
 騎士団独身寮に元からいた家政婦サフィナにも優しく迎えられて、日本にいる母を思い出したほどだ。これならやっていけるかもしれない。もし日本に戻ることができなかったとしても。
 梓紗には平和で穏やかなマルガリード王国にしか見えないが、十数年前までこの国は酷かったのだとルカリオの話を聞かされて驚愕した。城の図書室で歴史は読んでいたが、黒の歴史として史実には詳しくは書かれていなかったのだ。
 当事者の話はまさに壮絶だった。だからと言って、ルカリオを許す気持ちにはなれないけれど、きちんと話を聞いてみたい気持ちになったのも事実だ。
 数日後に控えている詮議の場で、ルカリオに対峙するのは怖い。なぜルカリオが梓紗をその場に呼ぶのかわからないが、でもきっと側に誰かがいてくれる。梓紗の心が折れてしまわないかと心配する男性たちの顔を思い出して、ふと笑んだ。それに気付いてまたも頰がゆるむ。
 こんな何もわからない状況下でも自分は笑えるのだと、不思議に思った。
 これからつらいこともあるだろう。でも前を向いて頑張らなければならない。
 戻れるにしろ、戻れないにしろ。自分はいまこの異世界で生きているのだから。
 梓紗は、自分の中にわずかに残っている強い心を奮い立たせるように顔を上げた。
 「頑張るしかない。頑張れっ! 私」
 そう声を出した後、サフィナが用意してくれた寝衣に着替えて寝台に横になり、ルカリオに聞かされた壮絶な過去にふと思いを馳せた。
   ◇ ◆ ◇

 今から二十二年ほど前にさかのぼる。
 ルカリオはまだ八歳。
 近衛騎士団に所属していた父を誇りに思っていた。ルカリオは弟や妹に父の武勇伝を話して聞かせ、その光景を母は微笑んで見守る――そんな幸せな家庭で育った。
 既婚者でも近衛騎士団に所属することができた時代。
 この時代の国王はクレマンテとベルトランの祖父。一族を大切にする想いが強すぎて、自国の貴族のみならず周辺諸国に、独裁者と評されていた人物だった。
 マルガリード国は豊かで、国王の政治手腕も優れていたため表面的には国が荒れることもなく、仮初めの平和が保たれていた。
 そんなときに起きた悲しい事故が、ルカリオの幸福な幼少期を終わらせることになる。
 ベルトランの両親である当時の第一王子夫妻が乗っていた馬車が崖から転落し帰らぬ人となった。
 息子を失い悲しみ激怒した国王は、第一王子夫妻を守っていた近衛騎士に苛烈な処断を下す。
 近衛騎士たちは罪人として斬首、城門でさらし首にされた。一族郎党、家名剝奪され財産没収。そのうえ、罪人として王都の外へと追放された。
 元から身体が丈夫ではなかったルカリオの母は父の後を追うように天国へと旅立ってしまった。
 両親を失ったことを悲しむ間もなく、ルカリオは八歳にして、四歳の弟と三歳の妹を抱え、罪人の子として王都を追われ、ろくに食べるものさえない貧しい日々に突き落とされたのである。
 八歳の子どもにできることは多くはなかったが、幼い弟と妹を死なせるわけにはいかない。パン屋の裏で待ち残りものをもらったり、時には残飯を漁る。弟妹を優先して、自分は水だけですます日さえあった。夜は森の中へと入り、木の洞の中で兄弟抱き合うようにして眠った。
 妹は両親を亡くしたショックで、一時期、話すことができなくなっていた。弟妹のための食糧を得るため街中を歩き回るルカリオに代わって、弟が三歳の妹を守り、つきっきりで世話をしてくれたおかげで、少しずつ言葉を取り戻すことができた。
 弟妹が自分を信じて待ち、仲良くしてくれることだけが、ルカリオの心の支えになっていた。
 だから、気付けなかったのだ。まさか幼い弟が自分の食べ物までも妹に与えているなんて。弟がやせているのは、貧しい暮らしで満足に食べることができないからだと思っていた。
 その日一日を生き延びるのに精一杯で、どうすれば弟妹にちゃんと食べさせることができるか――そんなことばかり考えていたルカリオは気付けなかったのだ。
 その日――パンを三人分も手に入れることができたルカリオは、少しばかり浮かれて急いで弟妹の待つ森へと帰った。いつもは妹と並んで自分の帰りを待っている弟が珍しく横になっていた。
 「小さい兄ちゃん、眠いって……」
 「そうか。今日はパンをもらえたんだ。しかも一人一個食べられるぞ」
 「わ~いっ!」
 喜ぶ妹にパンを与え、弟を起こそうと肩に触れたその瞬間、ルカリオはわかってしまった。
 冷たい身体。弟は天国へと旅立ってしまったのだ。
 涙を流すルカリオを妹が不安そうに見上げ、腕にすがりつく。
 「小さい兄ちゃんな……母さんのとこへ行っちゃった」
 そう言えば幼い妹も理解できる。父母だけでなく、小さな兄にも、もう会えないのだと――。
 ルカリオは泣きじゃくる妹を右手で抱き、冷たくなった弟も左手で抱き締め、ひと晩明かした。翌早朝、妹が眠っている間に母の墓の横に弟を埋めた。墓といっても土盛りをしただけのものだ。
 たった一人になってしまった肉親。妹を守れるのは自分だけなのだ。
 もう泣かない。決して幼い妹ルルの前では泣かないと、母と弟の墓に誓った。
 弟はもういない。わずか三歳の妹を一人で森に残すわけにもいかず、ルカリオはルルを背負って街へと降りた。とはいえ、ルルを背負ったままでいつものように街中を歩き回るわけにもいかず、ルカリオは途方に暮れていた。
 ひさしぶりに森の外に出たからだろう。ルルはルカリオの背で瞳を輝かせてきょろきょろ辺りを興味深そうに眺めている。
 「入らないのですか?」
 声のするほうにルカリオが視線を向けると、年老いた神父が立っていた。優しそうな微笑みを浮かべて、自分たち兄妹を見詰めている。
 (教会の前だったのか……)
 いつから教会へ通わなくなったのだろう。そんなことをぼんやりと思う。
 父が咎なき罪人にされる前には母とよく通った。
 母は神を信じていた。
 『神様はお空の上から私たちを見てくださっているのよ』
 そんなことを本気で子どもたちに話すような人だった。
 でも神様なんていない。もしいるのなら敬虔な信者である母を助けてくださったはずだ。
 何も言わないルカリオに、神父は違う問いかけをした。
 「お腹は空いていませんか?」
 「空いてる……」
 「こら、ルル」
 妹が素直に答えてしまった。
 「パンとスープがあります。私と一緒に食べてくれませんか?」
 「食べるっ!」
 ルルが嬉しそうに手を上げて元気よく返事をしながら、ルカリオの背から降りる。
 神父も嬉しそうにルルを慈愛のこもった瞳で見詰める。
 「貴方の妹さんですか?」
 「……はい」
 神父は二人に近寄り、ルカリオの背に手を添えた。
 「何か悩みがあるのですね? 聞くことしかできませんが、よかったら話してみませんか?」
 「……いえ、俺たちは罪人の子です。神父様は俺たちと関わりにならないほうがいい」
 一瞬驚愕したように神父は眼を見開いた。罪人と聞けば誰もがやはりそんな顔をする。
 神父とはいえ、人の子。罪人に関わることなどしたくはないはずだ。
 「おいで、ルル」
 妹の手を握り歩き出したルカリオの背に、神父は再び声をかけた。
 「お入りなさい。一緒に食事をいたしましょう。話したくないことは話さなくてもいいのですよ」
 神父の声にルルが立ち止まる。いいタイミングでルルの腹がグゥと鳴った。ルルがしょんぼりとした顔でルカリオを見上げた。
 「兄ちゃん……、お腹空いた」
 「ほら、妹さんが可哀相だ。おいでなさい」
 どうしてこの年老いた神父は、こんなに親切なのだろう?
 自分たちは罪人の子だと告白したというのに。
 胸の中に無理やり抑え込んできた悲しみや、荒れ狂うわけのわからない感情が溢れてきそうになって、視線を逸らした。
 「兄ちゃん、行こう。神父様もおいでって言ってるし、ね?」
 わずか三歳なのにルルはしっかりとした口調で話す。
 「さあ、お入りなさい」
 「はい……」
 その日から二人はこの教会で下働きを始めた。


 教会で暮らし始めて一ヵ月が過ぎた頃。教会へ通う貴族の子どもが亡くなった。生まれたときから身体が弱かったのだと葬式の参列者が話すのをルカリオは聞いた。
 それからしばらくして、子どもを失った貴族がルカリオの元へと訪れた。
 同席する神父と、貴族の表情を見てルカリオは嫌な予感がした。
 「君がルルちゃんのお兄さんだね?」
 「……はい」
 その貴族は伯爵だという。伯爵の奥方が教会で手伝いをするルルを見かけてから、ルルの話を笑顔でよくするようになったらしい。
 「妻はルルちゃんのおかげで元気になってきた。それで相談なのだが、ルルちゃんを私たちの子どもとして引き取りたい。大切に育てる。どうか考えてみてくれないかい?」
 「……」
 この男はルルを養女として欲しがっている。
 ルルを自分から奪い取るというのか? たった一人しかいない肉親だというのに?
 「毎週教会へは通わせる。君との面会もさせるつもりだ」
 必死に言い募る伯爵の声が、ルカリオの耳には入ってこなかった。
 「伯爵様、この子と二人だけで少し話させてくれませんか? 動揺しているようですし……」
 「ああ、そうだね。説得してくれたまえ」
 神父は頷いて、ルカリオの背を押し外へと連れ出した。
 「ルルちゃんは君のたった一人の妹さんだ。手放したくないのは、とてもよくわかるよ。でもあの方たちが良い方なのはルカリオも知っているだろう?」
 ルカリオは神父の声に無言で頷いた。
 「もう二度と会えないわけではない。そしてルルちゃんには母親が必要だ」
 わかっている。学校にも通わせたいし、美味しいものも食べさせてやりたい。可愛い服だって着せてやりたいし、人形だって買い与えたい。
 でも自分では何ひとつ叶えてあげることができないのだ。
 「ルルちゃんはまだ三歳だ。あの方たちを本当の親だと思い込める歳だよ」
 そうなればルルは自分を兄と認識しなくなるだろう。そう思うとルカリオの胸は苦しくなった。
 「大きくなってからの別れは、つらい記憶として残ってしまう。ルルちゃんのことを想って、我慢しておくれ」
 きっと神父の言うことのほうが正しいのだろう。わかっていても涙が溢れてくる。
 「すまないね。この教会がもう少し裕福ならもっと何でもしてあげられるのに……」
 満足に働けない子どもを養っていけるほど、この教会は潤ってはいない。
 「……わかりました」
 震える声で一言告げるのが精一杯だった。神父はそんなルカリオをきつく抱き締めた。


 数日後、伯爵家の夫婦は二人揃ってルルを迎えに来た。大きな二頭立ての馬車にルルは大喜びではしゃいでいる。ルルが伯爵家の養女になることを、ルカリオはとうとう妹に話すことができなかった。ルルはルカリオに用事があるから一晩だけお泊まりに行くだけなのだと思っている。
 ルルは可愛らしいドレスを着せてもらっていた。伯爵の奥方と二人並んでいると、本当の親子のように見えるから不思議だ。
 少し前までの自分たちの環境を思い出す。
 (懐かしい……ルルにはやっぱりこっちのほうが似合う)
 ルルは養女になったほうがいい。神父が言うように、まだ幼いのだから。
 伯爵はルルと面会させてくれるとルカリオに約束してくれたが、これから成長していく妹のことを思えばもう二度と会わないほうがいいだろう。
 だからルルを送り出したら、教会を出て行こうと決心していた。
 昨晩は一緒の寝台で眠った。小さな妹の温もりを忘れないようにと抱き締めて……。
 もう涙は流さないと誓っていたけど、ルルが眠った後に溢れる涙を止めることはできなかった。
 「兄ちゃんっ! 見て。可愛い?」
 「ああ、姫様みたいだな。可愛いよ」
 ルカリオがそう言うと嬉しそうにルルは笑った。
 (幸せになれよ……ルル)
 整えられて美しい宝石で飾られた髪に触れるのは躊躇したけれど、これで最後なのだ。許してほしい――そう思いながら、ルルをそっと抱き締め額にくちづける。
 「ルル……」
 「……兄ちゃん?」
 幼いながらルルは兄のルカリオの心の機微に敏感だ。
 だからルカリオは微笑みに身を切られるような思いを隠して、ルルの小さな背を押した。
 「……お願いします」
 「ええ」
 馬車の扉が開く。奥方が先に乗り、伯爵が続く。ルカリオは一人では乗れないルルの身体を持ち上げた。奥方がその身体を受け取る。
 「じゃあな、ルル」
 ルカリオは最後にやわらかい頰を撫でて身を引くと扉を閉めた。何も知らないルルはガラス越しに手を振っている。気遣うような御者の顔にルカリオは頷いた。
 ゆっくり馬車が動く。馬車の中でルルが嬉しそうに自分を呼んだ。
 「兄ちゃんっ!」
 ルカリオはルルが乗る馬車が見えなくなるまでその場で立ち尽くしていた。
 ――その日の深夜。ルカリオは教会を後にした。
 持っていく荷物はごくわずかだ。ルルが昼間まで着ていた服と、弟が大切にしていた父からもらったペン。母の美しい髪をまとめていた擦り切れたリボン。
 他には何も持っていなかった。小さな鞄に余裕で入るこれらがルカリオの全財産だった。
 教会の前に立ち、ルカリオは深々と頭を下げた。
 「お世話になりました」
 教会での生活は幸せだったと思う。神父の温情に感謝した。
 このとき、ルカリオはまだたったの八歳。
 大人になるにはまだ早すぎる歳だった。

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私この度、王国騎士団独身寮の家政婦をすることになりました(2)

私この度、王国騎士団独身寮の家政婦をすることになりました(2)

著  者
如月美樹
イラスト
蔦森えん
レーベル
eロマンスロイヤル
価  格
1200 円(税抜)
シリーズ
王国騎士団独身寮の家政婦
※各配信書店で販売金額が異なる場合があります。

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